2025.11.18 政治の「禊(みそぎ)」とは何か
- 道家やすなり

- 5 日前
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-各地で続く首長不祥事と、有権者に残される苦い後味-
前橋市長の “説明にならない密室事案” が報じられて久しい。
もしこれが男性首長であったならーそんな声が市井に広がるほど、説明の乏しさと対応の歯切れの悪さが市民の不信を深めている。
市民対話集会が開かれたものの、参加は当初想定のおよそ半数程度。「市民の声を聴く」と銘打った場に、そもそも市民が足を運ばない。信頼が揺らぐとは、こういう情景のことを言うのだろう。
前橋市議会はすでに2度の辞職勧告決議を行った。しかし、市長側に応じる気配はない。近く、不信任案が議会に上程される予定だ。首長と議会の緊張は極限に近い。
この構図は、どこかで見た景色である。時を同じくして静岡県伊東市では、市長が逆に議会を解散させ、住民に判断を委ねた。だが選挙結果は、市長への支持が「ほぼゼロ」に等しい厳しい現実を突きつけるものとなった。新たに選ばれた市議会は、間髪入れず不信任案を可決。自治体は市長選挙へと雪崩れ込んだ。
そして、我が岐阜でも同じ光景が広がる。
岐南町長による約100件に及ぶセクハラ疑惑が第三者委員会で指摘され辞職勧告を受け最終的に辞任。その後の町議選では、町長を支えていた議員のひとりは落選。もう一人は若手でありながら最下位。一方で、辞職した前町長本人が町議選へ転身し上位当選を果たすという異例の事態が起こった。
だが、「当選したから禊は済んだ」という空気は、町内にはまったくない。むしろ、有権者の胸中には説明のつかない違和感だけが残った。政治とは、本来「結果責任」で語られる世界である。ところが首長や議員が不祥事を起こすたびに持ち出されるのは「最後は選挙で審判を受けた」という、ある種便利な自己正当化だ。
確かに、選挙は民主主義の根幹だ。だが、投票行為がすべての責任を洗い流す“万能の禊”であってよいはずがない。不祥事のたびに首長と議会が衝突し、地域の政治が停滞する。その結果、苦しむのは他ならぬ主権者である住民である。
いま、各地で起きていることは、単なる個別の事件ではない。
政治倫理、説明責任、そして「禊とは何か」という問いが、私たちの自治の足元で突き付けられている。本当に試されているのは、政治家ではなく、政治をどう運営する社会なのかという、私たち自身の覚悟なのかもしれない。











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