2025.12.14 「遅れに慣れるという病」
- 道家やすなり

- 4 日前
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更新日:2 日前
「遅れとは、止まっていることではない。他が進んでいるのに、同じ場所にいることだ。」
これは、地方行政の現場に身を置く者ほど、胸に刺さる言葉である。
本日、通称「南部横断ハイウェイ」と呼ばれる、国道21号岐阜市内立体化事業の起工式が行われた。計画から実に40年以上。岐阜県内で最大の交通量を誇る幹線道路、延長約5キロの高架化事業が、ようやく動き出した。「待ちに待った」と地元は言う。確かにその通りだ。
しかし、この “待ち” の代償はあまりにも大きい。完成時期を見越して設計された岐阜南警察署の玄関は、道路計画の遅延により玄関の構造を高架化に対応できるよう二度も造り替えられた。公共事業とは本来、未来を先取りするためのものだ。それが、遅れの連鎖によって無駄を生む象徴となってしまった。
式典には、国会議員、県議会議員、市議会議員と、関係者が揃った。壇上で続く来賓挨拶を聞きながら、私は静かな違和感を覚えていた。誰一人として、この道路がここに至るまでの経緯に触れなかったからだ。
・岐阜市内に国土交通省の事務所用地を、いかにして確保したのか。
・それが南部地域の発展に、どれほど大きな役割を果たしてきたのか。
・21号線南側に、突如として整備された「ねぶか道路」新所平島線の背景。
・JR岐阜駅が「請願駅」と呼ばれる歴史的理由。
これらは単なる昔話ではない。「なぜ今の岐阜があるのか」を理解するための、背骨のような話だ。それに触れないということは、この街の成り立ちを語れる者が、壇上にいなかったということでもある。
私は前の席に座る県議会議員に「次に進めるべき国策事業は何だと思うか」と小声で尋ねた。答えは返ってこなかった。恥をかかせてはいけないと思い、私は話題をつなげた。「次は木曽川導水路」と。本来であれば、JR高架化、徳山ダム、東海環状、名鉄高架、21号高架化、そして木曽川導水路―
これらを一本の線として語れることが、地方を預かる政治の責任のはずだ。
国から県へ、県から市へ。手を離さず、事業を受け渡していく。それは駅伝のようなものだ。一人でも区間を理解していなければ、次の走者は立ち止まる。
「現状維持は、緩やかな後退である」
これは経営の世界でよく使われる言葉だが、地方行政にもそのまま当てはまる。起工式の間、私は地方経済が静かに萎縮していく姿を思っていた。目立った破綻はない。だが、次の一手が見えない。それが一番、街を弱らせる。遅れに慣れることは危機に慣れることだ。そして、慣れた危機はもはや危機として語られなくなる。
今日の起工式は、喜ぶべき一日であると同時に「なぜここまで時間がかかったのか」を問い直す日でなければならなかった。
未来を語らない祝辞ほど、地方にとって空虚なものはない。











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