2026.01.03 「高市政権だけが突出して有能なのか、それとも官僚機構が“政権劇場”を演出しているのか」
- 道家やすなり

- 1月3日
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「高市政権だけが突出して有能なのか、それとも官僚機構が“政権劇場”を演出しているのか」
◎政権は変われど、動かすのは誰か
安倍政権の時代、日本政治は「決断が速い」と評された。官邸主導、内閣人事局による官僚統制。賛否はあれど、国家は一つの方向を向き結果を出していた。
その後を引き継いだ岸田政権では風景が一変。「検討」「議論」「丁寧な説明」という言葉が前面に出る一方、決断の主体は曖昧となり国民の信頼は音を立てて崩れていった。
さらに石破体制では、国会議員との融和、官僚との協調が重視されたが、皮肉にもそこから生まれたのは停滞だった。誰も反対しないが、誰も責任を負わない。政治は安全になったが、前には進まなかった。
そうした流れの中で、現高市政権の「高速対処」は際立って見える。議論を長く引き延ばさず、期限を切り責任の所在を明確にする。結果、政策の実装は速い。だが、ここで一つの疑問が浮かぶ。
◎これは高市という政治家の卓越した能力なのか。それとも官僚機構が再び本気で動き始めた結果なのか。
官僚は、無色透明な存在ではない。政治の覚悟を見極め、勝ち馬に全力を注ぐ。目標が明確で、政治が逃げないと判断すれば、驚異的な実行力を発揮する。一方で、政治が責任を回避すれば、官僚もまた前例と調整の殻に閉じこもる。
そう考えれば、高市政権下で見える「スピード」は、個人の資質だけでなく、官僚機構が「この政権は成功させる」と判断し、国家として最大出力を出している姿とも映るが、この感触は私だけだろうか。言い換えれば、今の政治は再び“政権劇場”を官僚が演出できる条件を整えたのである。しかし、そこには危うさも潜む。スピードと成果が称賛されるほど、国会の熟議や国民への説明は後景に退きがちになる。成功している間はよい。しかし、失敗したときその検証は誰が引き受けるのか。結局、問われているのは人物評価ではない。
◎ この実行力が特定の政治家に依存せず制度として再現可能なのか。
もしそうでなければ、日本政治はまた次の政権で同じ迷路を彷徨うことになる。政権は変われど国家を本当に動かしているのは誰なのか。今、その問いが静かに突きつけられている。










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