2025.08.13 夏の夜空に咲く花火は、誰のものか。
- 道家やすなり
- 8月13日
- 読了時間: 2分
長良川の夜空を彩った花火が、今年も静かに幕を下ろした。
しかし、残るのは煙の匂いだけではない。
胸の奥に、どこか釈然としない「後味」も漂っている。
本来、行政が積み上げるべきは、地味だが確実に暮らしを支える土台作りだ。
畑を耕す農夫のように、毎日少しずつ、黙々と水や肥料を与えることと同じリズムの仕事であるはずだ。
近年は、コロナ騒動も終わりを迎え、地域で育まれた様々なお祭りも復活を目指している。
長良川では、全国から注目を集める二つの大花火大会が一本化された。理由はシンプルだ。主催する二つの新聞社の予算的事情を受け、岐阜市が判断したからだ。
さらに「指定席制度」という新たな仕組みまで導入し、数千円から数万円の“特等席”を販売。これで説明のつく予算を確保したという。
だが、その姿はもう「行政が市民と楽しむお祭り」というより、「興行主として客を選別するイベント」に大きく変わった。
お金を払えば人を選別・排除できるという切り替えだ。
税と自然環境という公的資産で、そんな仕組みを作ることはかつての行政なら考えられぬ愚策だ。
行政が立場を変え協力してきたイベントのこの花火大会も「きれいでしょう」と、市民の目を眩ませる戦術として復活してきた。だが、派手な花火は一瞬で散る。
祭り上手はいいが、生活上手とは限らない。
やがて、市民はその光に飽き、暗闇の中で「日常の灯りはどこだ」と探し始めているのではないか。
岐阜市南部の柳津町にも、地域を代表する花火大会がある。コロナ禍を乗り越え、今年も再び住民が動き出している。
しかし、こちらには長良川のような行政協力はない。
小さな境川で打ち上げられるその花火は、議会の一部の反対という“雑音”の中で、今年も開催に向け頑張っている。
この対応方は、まるで、家の長男には惜しみなく小遣いを渡し、末っ子には「我慢しなさい」と言う親のようだ。
夏の夜空に咲く花火は、誰のものか。
それは、地域を愛するすべての人のものであり、財布の厚みによって見え方が変わるものではないはずだ。
行政の仕事は、夜空を彩る花火を仕切ることではなく、日々の暮らしを支える灯りを絶やさぬことだ。
そんな当たり前を見失った行政。
目指すべきものの違いを教えてくれた気がする。

Comentarios