2025.09.11 「なぜそこまで」
- 道家やすなり
- 3 日前
- 読了時間: 2分
更新日:6 時間前
ここ数年、議会での市長の発言に一抹の違和感を覚える。
内容そのものというより、時に声高となる感情の昂りに
「なぜそこまで」と思わず耳を傾けてしまうのだ。
本日の市議会は代表質問初日。まずは自民党からの登壇。
焦点はやはり県知事が提唱するLRT構想である。
マスコミ報道に「悲観的」と映る発言が載ったため、市長は冒頭から「私は反対ではありません」と前線を張った。
だが、答弁を重ねるにつれ表情は厳しくなり、問題点を執拗に繰り返す。いわば「竜頭蛇尾」、最初の軽やかさは影を潜めた。
そもそも今回のやり取りは、誤解を解きたい市長側と、それに応じた自民党との“すり合わせ”で準備された筋書きを読み合う「提灯質問」に過ぎなかった。
問題はその後である。
次の質問者は、LRTへの賛否ではなく、街づくりを住民で考え、進めていこうと、地元署名一万余りを抱えた市民の提案がコロナ禍で頓挫し、振り出しに戻った手続きの拙さを厳しく指摘した。
ここで市長は「私ども(市側)の認識とは違う」と切り返す答弁。再質問では「おさらい」とし、長々と過去の経緯を列挙するにとどまった。
実は、この場には怒りを抱えた市民が何十人も傍聴して
いた。質問者を擁護するつもりはないが、こうした場面こそ「和を以て貴しとなす」の姿勢が必要ではなかったか。
多少の感情を交えてでも、誠意ある答弁を返すべきだったと、同席した議員の多くも感じていたに違いない。
思い出すのは、往年の名物市長・蒔田氏だ。
彼は幹部職に「議員が地元へ持ち帰れる答えを用意せよ」
と常に諭したという。まさに「人を立てれば蔵が立つ」、相手を立てることが市政全体の信頼につながるのだ。
来年には市長選挙が控える。
対抗馬は見当たらないと言われるが、だからこそ「泰然自若」の器量が求められる。議場の一言一句が市民の信頼に直結する時代、言葉は矢となり盾ともなる。
私自身、最終日に登壇する半端な立場の議員に過ぎない。
しかし「蔵より人」「言葉は国の礎」という思いで、市政に臨む覚悟を新たにしている。願わくは、市長もまた、より大らかな心で議場を包み込む答弁を示してほしい。
岐阜市の未来はその一挙手一投足にかかっているのだから。

コメント