2025.10.01 岐阜市の大学四大化構想 - 公共経営の責任を忘れるな
- 道家やすなり
- 10月1日
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岐阜市の大学四大化構想 ― 公共経営の責任を忘れるな
全国で大学経営が揺らいでいる。私立大学法人の約半数が赤字、しかも三期以上連続して経営難に陥る例も少なくない。少子化の直撃で入学定員を満たせず、学費収入に依存する大学財政が急速に疲弊している現実は、もはや周知の事実である。
そうした中で岐阜市が進める「女子短大の男女共学・四年制大学化」構想は、果たして賢明だろうか。表向きは若者流出防止、地域の教育拠点強化といった美名を掲げる。しかし、既存の国立岐阜大学や私学との競合を避ける明確な戦略が見えず、特色を欠いたまま四大化すれば「新たな財政リスク」を背負い込むだけになりかねない。
しかも岐阜市はすでに、ハードを抱える自治体経営の重圧に直面している。中央卸売市場のリニューアルは大幅に遅れ、事実上とんざしたと指摘されている。まもなく迫る市民病院の独立法人化問題も、職員体制・財源確保・市民医療サービスをどう維持するか、その道筋が不透明なままだ。
大学も市場も病院も、いずれも「一度持てば後戻りできない巨大施設」である。自治体が安易に手を広げ、維持管理の責任に耐えきれず立ち往生する例は全国で後を絶たない。岐阜市もまた同じ轍を踏もうとしてはいないか。
本来、公立大学を設ける意義は、民間が担えない人材養成-看護や保育、福祉、防災といった地域密着分野に限られるべきだ。人口減少下の現実を見据えず「短大の延命策」として四大化を図るのは、自治体経営の責務を忘れた愚策に映る。
今こそ岐阜市は、次世代に負担を先送りする「箱モノ行政」から決別しなければならない。大学経営の現実、未完の市場整備、病院の将来像-これらを直視し、公共が背負う責任の重さを改めて市民に示すことが、何よりの急務である。

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