2026.03.24 「メリハリの裏側に、議会の覚悟はあるか」
- 3月24日
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「メリハリの裏側に、議会の覚悟はあるか」
間もなく、岐阜市の当初予算議会が終わる。初めて2,000億円を超えた一般会計は、いわゆる「メリハリ型」と評される。聞こえは良い。しかし、その本質は単純だ。増やすものと、削るものを選んだだけの話である。
では、何を削ったのか。
この問いに真正面から向き合うのが、本来の議会の役割だ。私が初陣を飾った30年前。当初予算は約1,200億円だった。バブル崩壊が平成2年。その後、地方には7〜8年ほど「余韻の経済」が残り、平成9年度を境に地方の建設的予算は終焉を迎えた。あの頃は、まだ未来に投資する余力があった。道路も、施設も「つくることで前に進む」時代だった。
しかし今はどうか。
円安の波に押され、日本は世界競争の土俵から徐々に外れつつある。地方財政もまた、守りを強いられる時代に入った。その中での2,000億円。膨らんだのは「規模」だが、広がったのは市民生活の「余裕」ではない。だからこそ「メリハリ型」という言葉は重い。福祉や物価対策に厚く配分する一方で、インフラや投資的経費は抑制される。つまりこれは、未来を少し先送りしながら、現在を守る予算でもある。
では、その是非を誰が問うのか。
言うまでもなく議会である。しかし現実はどうか。本会議の質問戦において、しばしば見られる光景がある。行政側にとって「答えやすい問い」を並べ、まるで議席と質問権を貸し出したかのようなやり取りが繰り返される。だが本来、議案の本質的な審議は委員会にある。細部に踏み込み、数字の裏を問い、政策の優先順位を炙り出す場だ。そこに至る前の「やり取り」が形骸化しているとすれば、それは議会の責任放棄に近い。残念ながらバッヂの盾に守られ、市の幹部に議員が負けている構図が見える。メリハリ型予算とは、選択と集中。ならば議会は、その選択の根拠と、切り捨てられたものの重さを問わねばならない。
「増えたか減ったか」ではない。「何を諦めたのか」を問うのが議会の仕事だ。
30年前、1,200億円の時代にあったのは、未完成ゆえの伸びしろだった。2,000億円の今に求められるのは、成熟ゆえの判断力である。私は、提案を続けていきたい。











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