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岐阜市議会議員 道家やすなり公式ブログ



道家やすなり
2月16日


2026.02.13 若さの証明より、遠ざかる勇気
若さの証明より、遠ざかる勇気 若いころの私は 「自分を証明する」 ことに忙しかった。どんな時も 「あいつはできる」 と言われたい。その一心で誰よりも強く主張し、誰よりも早く結論を出し、誰よりも目立とうとした。振り返れば、あれは向上心というより意地だったのかもしれない。一般的に、人は三つの大きな穴に落ちると思う。 一つは「自分を証明しようとする意地」だ。 ある案件で、どうしても自分の提案を通したい場面があった。内容そのものよりも 「自分が言い出した」 という事実にこだわっていた。周囲の慎重論に耳を貸さず、強引に進めた結果、後で恥ずかしさを刻むことになった。ことは前に進んでも、信頼は一歩も二歩も後退していた。 二つ目は「感情で決断する危険」。 厳しい批判を受けた日、悔しさのあまり翌朝すぐに対抗する構えを用意したことがある。勢いで放った言葉は拍手も呼んだが、後味は悪かった。冷静に熟考すれば、もっと違う道があったはずだ。感情は瞬間的な熱をくれるが、長く灯る光ではない。 三つ目は「他人の評価に気をとられる不自由」。 信用・噂・陰口・拍手の大きさ。若いころは

道家やすなり
2月13日


2026.02.12 「弱さ」の連鎖が、まちを動かす
「議員は地元に弱い。地元は役所に弱い。役所は議員に弱い。」 私は選挙の折、よくこの一節を口にする。一見すると皮肉のようであり、権力構造の裏側を暴く言葉のようにも聞こえる。しかし三十年近く政治に携わってきた今、この言葉は単なる揶揄ではなく地域社会の “重力” を示す現実だと実感している。 議員は地元に弱い。 それは票に弱いという意味ではない。困っている顔に弱いのだ。自治会の一言、商店主の嘆き、子どもを抱えた母親の不安。そこに背を向けられないから役所の扉を叩く。 地元は役所に弱い。 制度は難しく予算は限られ、窓口は高い。正論を言われればそれ以上は踏み込めない。だから市民は議員に託す。 そして役所は議員に弱い。 これは力関係の話ではない。議員という肩書があるからこそ、行政は丁寧に耳を傾ける。私自身、どれだけ無理を申し上げ、どれだけ現場で汗をかいていただいたことか。冷静に受け止めてくださる職員の姿勢は、今もこちらから頭を下げ感謝の思いだ。 だが、議員側はどうか。 浮き足立つ者もいる。立場を地位と勘違いする者もいる。正直に言えば、私自身も前半は “のぼせて

道家やすなり
2月12日


2026.02.12 無所属という旗を掲げて
「ずっと一人で無所属。ボッチくんですね。」 そう言われて、私は少しも見すぼらしいとは思わない。むしろそれが私の金看板だ。振り返れば、十四年間は自民党籍の議員。その後、離党勧告を受け十五年間を無所属で歩いてきた。合わせて三十年近い歳月になる。 その間「道家は終わった」と何度笑われただろう。 議会で発言しても、政党の後ろ盾はない。保守の立場にありながら、組織の傘もない。いわば “底辺取り” の政治である。だが、底辺を引き受けることは決して卑屈ではない。 議会の中には、執拗ないじめに遭い政党どころか会派にも入れてもらえない議員もいる。そんな姿を見るたび 「ならば私が一番下を取ろう」 と思う。下には下がいると分かれば、人は少しだけ気持ちが軽くなるものだ。誰よりも低い点をご馳走にする。自分が一歩下がれば、周囲は一段高く見える。舞台で言えば、私は主役ではなく大道具係だ。背景を整え、舞台を支える役目。しかし大道具がなければ芝居は成立しない。 「誰よりも自民党らしい」 と、みんなに言われても誇るつもりはない。組織の本流にいることが価値なのではない。むしろ、流れか

道家やすなり
2月12日


2026.02.12 語録…
議員として地域問題を行政に聞いていただき、その対応数はあらけない。 依頼者からお礼を言われ、私は行政にお礼をお伝えする。 お互い様で、議員がすごいわけでなく、議員を輩出する制度でみんなが助かる。 どれだけ助けて頂いたことか。絶対、感謝を忘れてはいかん。

道家やすなり
2月12日


2026.02.11 議会人は「公人」である。
議会人は「公人」である。その自覚を欠いた夜の醜態。 「酒の席だった」「悪気はなかった」 こうした言い訳がこれまで幾度となく不祥事の後に繰り返されてきた。しかし、今回の事案にそれが通用する余地は一切ない。 二月四日の夜 議員と部長級職員による懇親会の席で起きた一連の行為は、単なる無礼や酒癖の悪さという次元を、明確に超えている。 現職議長、議長経験者、複数の部長 が同席する中、問題の議員は泥酔状態となり、先輩議員に対して横柄な言動を繰り返したという。場の空気を壊すだけでなく、注意を促した部長の声にも耳を貸さない。その時点で、すでに議会人としての自制は完全に失われている。 さらに事態は 帰りのタクシー前で決定的に一線を越える。部長に対し 「ハグをしたい」 と言いながら終始顔に手を回し、行為はエスカレートし、最終的には平手で顔を叩くという暴力に及んだ。メガネが壊れなかったからハグだった、という理屈が成り立つとでも思っているのだろうか。常識的な社会人関係において、その解釈を受け入れる者は一人もいない。 これはハラスメントであり、明確な暴力行為である。 「注

道家やすなり
2月11日


2026.02.07 今回の選挙では
今回の選挙では コロナでできたバラマキから大きく変わり、減税という新種の荒業の作戦に出た。税は暮らしを支えるためにあるはずです。日々の暮らしの中で 「なんとなく苦しくなってきたな」 そう感じる場面が増えていないでしょうか。物価は上がり光熱費も食費もじわじわと重すぎの社会。一方で、税金や社会保険料は静かに、しかし確実に差し引かれていきます。ここで一度、税の役割そのものについて考えてみたいと思います。 かつての国づくりが教えてくれること 歴史を振り返ると、建国後しばらくのアメリカ合衆国ではおよそ100年を超えて、 〇公的な社会保障 〇年金制度 〇公的医療保険 こういった仕組みはありませんでした。これは 「弱い人を切り捨てていた」 という意味ではありません。国が担う役割を意識的に小さくしていたということです。税は必要最小限。国家は肥大化しないよう自らを抑えていました。 税は「蛇口」のようなもの 税はよく水に例えられます。暮らしに必要な分だけ蛇口をひねる。足りなければ少し足す。不要になれば締める。これが本来の姿ではないのか。 ところが今の日本では、蛇口が

道家やすなり
2月7日


2026.02.06 住宅高騰は、もはや「都会の話」ではない
―岐阜市・一宮・春日井で起きている足元の現実― 住宅価格の高騰と聞くと、東京23区の1億円超マンションを思い浮かべる方も多いだろう。しかし今、その波は確実に私たちの生活圏―岐阜市・一宮市・春日井市といった東海の中核都市にも及び始めている。 東海圏全体の新築分譲マンション平均価格は、2023年時点でおよそ4,500万円。20年前と比べ、1,600万円前後の上昇だ。 東京ほど急激ではないが、東海の賃金水準を考えれば決して軽い上昇ではない。 →「岐阜なら何とかなる」は、もはや昔の感覚 岐阜市では、駅周辺や幹線道路沿いを中心に、新築マンションが4,000万円台後半から5,000万円近くで販売されている。一方、郊外で戸建てを検討しても建築費や外構費の上昇により、総額3,500万〜4,000万円台が現実的なラインとなっている。加えて、岐阜市特有の車2台前提の生活は住宅ローンとは別に家計を圧迫する。 「住宅費は抑えられても暮らし全体では余裕がない」 こうした声は決して少数ではない。 →名古屋通勤圏の“受け皿”が限界に近づく一宮 一宮市は長らく 「名古屋に通えて

道家やすなり
2月6日


2026.02.06 病と疑念、裁かれる政治—山本太郎氏辞職が照らす“国の違い”
山本太郎氏が、健康上の理由で議員辞職を表明した 本人は動画で、多発性骨髄腫(血液のがん)“またはその一歩手前”にあると語り、治療と進行抑制を最優先にするとした。政治の決断としても重いが、何より命の決断である。まずは治療と回復を願うべきだ。ところが同時に、世間には別の 「ざわめき」 が生まれた。 「触れてはならないことに踏み込んだから、圧力が加わったのではないか」 こうした声は、事実として裏付けられたものではない。病は病であり、辞職は本人の選択だ。ここは揺るがせにしてはいけない。それでも、なぜ噂が生まれ消えないのか。理由は、山本氏個人の “陰影” というより、国ごとに違う 「政治の清算の作法」 にあると思う。 ◎日本→裁かれないかわりに、説明も尽くされない 日本で政治家が責任を問われるとき、司法より先に 「辞任」「引退」「説明不足」 で幕が引かれがちだ。トップ級が刑事責任を問われる場面は極めて限られ、社会は “手打ち” に慣れている。その一方で、語られない余白が残る。そして、この余白はときに危険な形で埋められる。 「語られない=何かある」「表に出な

道家やすなり
2月6日


2026.02.01 伝統という「軸」を持つということ
伝統という「軸」を持つということ 自民党の高市早苗総理大臣が語った 「相撲の土俵に女性は上がらない」 という姿勢に、強い違和感を覚える人もいるだろう。しかし、私はむしろその言葉に一本の芯を感じた。 それは男女不平等を是とする発言ではない。 男女平等という理念を否定したものでもない。高市氏が語ったのは 「日本で長く守られてきた伝統を、軽々に時代の空気で塗り替えない」 という覚悟である。 昨今はどうだろう。 何かにつけ 「アップデート」 が求められ、声の大きい側の主張があたかも正義のように扱われる。だが、その多くは流行語の寄せ集めであり自分自身の考えを持たないまま時代に運ばれているだけではないか。 男女平等という言葉は美しい。 しかし、リベラルな思想だけで男女の関係性や役割のすべてが整合するとは私は思えない。かつての男尊女卑を是正する議論は、すでに一定の役割を終えている。今起きているのは、新しい正しさを競い合う 「披瀝合戦」 であり論点のすり替えにすぎないようにも見える。 本当の平等とは同じことをすることではない。 「これは男の自分がやろう」...

道家やすなり
2月1日
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