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岐阜市議会議員 道家やすなり公式ブログ


2026.02.06 病と疑念、裁かれる政治—山本太郎氏辞職が照らす“国の違い”
山本太郎氏が、健康上の理由で議員辞職を表明した 本人は動画で、多発性骨髄腫(血液のがん)“またはその一歩手前”にあると語り、治療と進行抑制を最優先にするとした。政治の決断としても重いが、何より命の決断である。まずは治療と回復を願うべきだ。ところが同時に、世間には別の 「ざわめき」 が生まれた。 「触れてはならないことに踏み込んだから、圧力が加わったのではないか」 こうした声は、事実として裏付けられたものではない。病は病であり、辞職は本人の選択だ。ここは揺るがせにしてはいけない。それでも、なぜ噂が生まれ消えないのか。理由は、山本氏個人の “陰影” というより、国ごとに違う 「政治の清算の作法」 にあると思う。 ◎日本→裁かれないかわりに、説明も尽くされない 日本で政治家が責任を問われるとき、司法より先に 「辞任」「引退」「説明不足」 で幕が引かれがちだ。トップ級が刑事責任を問われる場面は極めて限られ、社会は “手打ち” に慣れている。その一方で、語られない余白が残る。そして、この余白はときに危険な形で埋められる。 「語られない=何かある」「表に出な

道家やすなり
2月6日


2026.02.01 伝統という「軸」を持つということ
伝統という「軸」を持つということ 自民党の高市早苗総理大臣が語った 「相撲の土俵に女性は上がらない」 という姿勢に、強い違和感を覚える人もいるだろう。しかし、私はむしろその言葉に一本の芯を感じた。 それは男女不平等を是とする発言ではない。 男女平等という理念を否定したものでもない。高市氏が語ったのは 「日本で長く守られてきた伝統を、軽々に時代の空気で塗り替えない」 という覚悟である。 昨今はどうだろう。 何かにつけ 「アップデート」 が求められ、声の大きい側の主張があたかも正義のように扱われる。だが、その多くは流行語の寄せ集めであり自分自身の考えを持たないまま時代に運ばれているだけではないか。 男女平等という言葉は美しい。 しかし、リベラルな思想だけで男女の関係性や役割のすべてが整合するとは私は思えない。かつての男尊女卑を是正する議論は、すでに一定の役割を終えている。今起きているのは、新しい正しさを競い合う 「披瀝合戦」 であり論点のすり替えにすぎないようにも見える。 本当の平等とは同じことをすることではない。 「これは男の自分がやろう」...

道家やすなり
2月1日


2026.01.31 県都の距離感
政治の世界では、選挙の一場面がその後の関係性を長く規定することがある。岐阜県政もまさにそうした局面を経験してきた。 今回も私は、柴橋支持で選挙を進めているが思うことがある。 現在の知事である 江崎禎英 氏が最初に挑んだ知事選挙。この初戦では、自民党県連が明確に現職支持でまとまらず組織は二つに割れた。そうした不安定な状況のなかで、県内の市町村長らは当時の現職知事への 「団結支持」 を表明する。その輪の中に、県都トップである 柴橋正直 市長も加わった。行政運営の安定を重んじる首長として、決して不自然な判断ではない。だが一方で、岐阜市民の間からは異論も噴出した。 「なぜ県都が、県・市議会も割れているのに現職側に立つのか」 この疑問が市民感情として残ったことも否定できない。結果、初戦では涙を呑むがやがて江崎氏は次の選挙で勝利し知事に就任する。 実はその頃、柴橋市長自身も知事への意欲をにじませ、市議会の質疑でもその姿勢を正される場面が幾度もあった。こうした経緯が重なり、江崎知事と柴橋市長の間に一定の距離感が生じたのは事実で、それが市議の間で共有されている認

道家やすなり
1月31日


2026.01.30 ふと、ある先輩議員のことを思い出した。
ふと、ある先輩議員のことを思い出した。 もう亡くなられたが、身体に不自由を抱えながら議員を続けていた方だ。 ある時、ご本人がこう言われた。 「みんなと同じようにはできないからね。だから、俺は一日一つずつやってるんだ」 その言葉どおり、派手さはないが毎日欠かさず続ける政治活動は、同僚議員の間でもよく語られていた。 なぜ、今になって思い出すのか。 それは、今の政治の現場で一足飛びの成果を狙うような派手な振る舞いばかりが目につくからだと思う。 例えるなら、 毎日コツコツ薪をくべる人と、たまに大きな火花を上げる人の違いだ。 前者は目立たないが部屋を暖め続ける。後者は一瞬まぶしいがすぐに冷える。 政治は、本来どちらであるべきなのだろう。 物価高で生活が苦しいと感じる人が増えている今、私たちは市議として毎月65万円の歳費に加え、無税の15万円の政務活動費をいただく立場にある。この 「当たり前」 に慣れてしまってはいないか。そう思うと正直恥ずかしくなる。 一日一つずつ。派手さはなくても火を絶やさない政治。 松葉杖を使われながら、歳を重ねられ次第に車いすへと。あ

道家やすなり
1月30日


2026.01.29 岐阜市長選 二つの「優先順位」
市長選挙で問われるのは、 理念よりもスローガンよりも「限られた予算をどこから使うか」という優先順位だ。 今回の岐阜市長選。 現職 柴橋正直 氏と、新人 大須賀しづか 氏。 両者の政策を並べてみると、争点は意外なほどシンプルに整理できる。一つは、市街地活性化の考え方。もう一つは、物価高への向き合い方だ。柴橋氏は現職として、これまで進めてきた岐阜駅周辺や中心市街地の再開発を軸に都市の骨格を動かす発想を取る。名鉄高架化をはじめとする大型インフラ整備もその象徴だ。 「街を動かせば、人が動き経済が回る」 ―成長を呼び込む循環を重視する立場と言える。 一方の大須賀氏は、 そうした大型事業よりも、今の暮らしに直結する政策を優先すべきだと訴える。中心市街地についても、高層ビルや再開発より商店や生活の場としての再生を重視する姿勢を見せている。違いは、物価高対策にも表れている。 柴橋氏は、現職として国や県の制度と連動しながら、全体として市民生活を支える立場を取る。一方、大須賀氏はごみ袋有料化の凍結等、家計への直接的な負担軽減策を前面に出す。どちらが正しい、という話で

道家やすなり
1月29日


2026.01.28 YouTubeチャンネル絶賛更新中
岐阜市会議員 道家やすなり 135㎏ 戦力外議員の発信チャンネル YouTubeチャンネル 絶賛更新中✨ https://www.youtube.com/@dohke21433 最新動画はこちら! https://youtu.be/VlyW9Zhpi54?si=CLQ3UtsAJF-oqTgR

道家やすなり
1月28日


2026.01.26 比例単独、増えて見えるのは気のせいか
今回の総選挙を眺めていて、ふと気になる光景がある。 比例代表名簿に 「単独」 で名前を連ねる候補者がやけに目につくのだ。気のせいだろうか。いや、どうやらそうでもない。実情として、比例代表のみで立候補する候補者は近年増える傾向にある。政党の細分化、選挙区調整の難しさ、そして限られた人材を効率よく配置したいという党本部の事情。そうした要因が重なり 「小選挙区に立てないが、名簿には載せる」 という判断が各党で広がっている。 比例代表は、政党の思想や政策を国会に反映させるための大切な制度だ。 制度がある以上、国民の権利として否定されるべきものではない。ただ一方で、比例単独候補が増えて見える現象は、政治の足腰がやや弱っている兆しを感じるのは私だけだろうか? 小選挙区は、候補者が地域の空気を吸い声を聞き時に厳しい評価を正面から受ける場所だ。 祭りや葬儀・自治会・商店街・学校行事―そうした日常の積み重ねの中で、政治家は鍛えられる。比例名簿だけでは得がたい経験がそこにはある。本来、総選挙で増えるべきなのは、比例単独の名前ではなく小選挙区を大事にする候補者の数では

道家やすなり
1月26日


2026.01.24 市政報告会
今日も寒い中、市政報告会へおいでくださりありがとうございました✨

道家やすなり
1月24日


2026.01.23 若手首長という「次の走者」
若手首長という「次の走者」 岐阜県内を見渡すと、静かに存在感を強めている若手首長がいる。 柴橋正直(岐阜市)藤井浩人(美濃加茂市)高木貴行(多治見市)浅野健司(各務原市) いずれも市政の現場で実績を積み 「次」 を意識せざるを得ない世代だ。しかし、先の知事選挙で江崎氏が当選したことで県政の時間軸は一気に固定された。少なく見積もっても向こう十五年、下手をすれば二十年。この顔ぶれが知事交代を現実の射程に入れる余地は極めて限られている。 ここで重なるのが、今回の急な衆院解散・総選挙だ。 一見すると地方首長には無関係に映るが実はそうではない。たとえるなら、陸上競技のリレーで前の走者が転びかけた瞬間に似ている。バトンを受け取る準備をしていた者だけが流れを変えられる。 今回の衆院選は、実はまさにその「一瞬」だった。 県議からの挑戦者が並ぶ選挙構図は確かに堅実だ。だが、率直に言えば現在名を連ねる国政への鞍替え県議の多くは、先に挙げた首長たちの政治的厚みや執行経験に及ばない。にもかかわらず、同格の首長たちは動かなかった。あるいは動けなかった。それは 「慎重」 だ

道家やすなり
1月23日


2026.01.22 身体を削る政治家業
身体を削る政治家業 政治家とは、言葉で仕事をする人間だと思われがちだ。だが現実には、身体で引き受ける仕事でもある。 病気治療を理由に参議院議員辞職を表明した、山本太郎氏の報道はその事実をあらためて突きつけた。 原発事故以降、 彼は一貫して反原発を掲げ被災地や路上炊出しの現場に立ち続けてきた。 国会の内側と社会の最も外縁にある現場を同時に走り続ける政治。それは制度に守られた政治というより、個人の体力と覚悟を燃料にする政治だった。 日本の政治家は、声を荒げない者ほど長く続き摩擦を恐れない者ほど早く消耗する。 反原発、貧困、格差、緊縮への異議。 それらは国論を二分するテーマであり、発言するだけで敵を増やす。支持と同時に、嘲笑や中傷も浴びる。それを十年以上休みなく続ければ、心身が削られないはずがない。今回の辞職を単なる 「個人の体調問題」 と片付けてしまえば、それは政治の表面のみで、それでは問いを見落とすことを考えるべきだ。 ―なぜ、一貫して異議を唱える政治家ほど身体を壊しやすいのか。 ―なぜ、政治が「消耗戦」になっているのか。 誰かが辞めるたびに「代わ

道家やすなり
1月22日





