2026.03.11 辞めれば終わり、当選すればみそぎ?
- 3月11日
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辞めれば終わり、当選すればみそぎ?
有権者が抱く政治の不条理。地方政治の世界ではときに首をかしげるような光景に出会う。
福井県では、前知事のセクハラ問題をめぐる調査費用をめぐって、約1500万円で幕引きを図ろうという話が持ち上がった。しかも「これ以上は求めない」という条件付きだという。新知事がこれを受け入れる構えを見せる一方、県議会では特別職の退職金支給制限の議論が深まらないまま、委員会は持ち越しとなり議会は紛糾している。問題の核心は、単なる金額の話ではない。不祥事の責任がどこまで問われるのか、という政治倫理の根本である。
一方、私の地元岐阜県でも記憶に新しい事件がある。
岐南町で起きた町長のセクハラ問題だ。第三者委員会の調査で多数のセクハラ行為が認定され調査費用は約1200万円。町長本人は当初「自分が払う」と語った。しかし、弁護士の助言を御旗にその言葉は実行されないまま町長は辞職。その後、なんと町議会議員選挙に出馬し当選。全国でも「日本で最も異常なセクハラ事件の一つ」と言われたゆえんである。
辞めれば責任を取ったことになる。
そして再び当選すれば、みそぎは終わったことになる。そんな理屈が、いつの間にか政治の世界ではまかり通る。しかし、それをどう受け止めればよいのか。選挙は確かに民主主義の根幹である。有権者が選んだ結果である以上、その意思は尊重されなければならない。だが同時に、こうした出来事が続くたびに多くの市民は「政治の責任とは、一体何なのか」と感じるのではないだろうか。
政治家が辞めることは、責任の始まりであって終わりではないはずだ。そして選挙で当選することが、すべてを洗い流す免罪符になるわけでもない。にもかかわらず、政治の現場では「辞職」と「再当選」という二つの出来事だけで物事が整理されてしまう。そこにはどこか、政治家と有権者のあいだに横たわる説明の空白がある。
民主主義とは、制度だけで成り立つものではない。
政治家の倫理と、有権者の判断、その両方があって初めて健全に機能する。
・不祥事の責任とは何か。
・辞職とは何なのか。
・当選とは何を意味するのか。
こうした問いを、私たちはもう一度考え直す時期に来ているのではないだろうか。











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